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◇想像膨らむ神秘性−−千葉市中心部
「千葉市の中心部に昔、大きな池があったのをご存じですか?」−−さる筋からそんな情報が研究所にもたらされた。聞けば、その起源を探るための大きなヒントは、県庁わきの公園にあるという。研究員が調査を進めたところ、今では想像もつかないスケールの大きさの池の存在と、池をめぐって伝わる「羽衣」伝説の新しい一面が浮かび上がった。【研究員・森有正】
■古文書に残る池の痕跡
情報を得た研究員はとりあえず、県庁わきの公園を探していると、仕事でもよく通る「羽衣公園」が目に付いた。あたりを見回すと、いままでは気付かなかった大きな立て札がある。立て札は大きな一本松の手前にあり、こう書いてあった。「むかし、千葉の亥鼻(いのはな)城下に、千葉(せんよう)の蓮(はす)の花の咲きほこる池田の池があり、その周辺は蓮の花盛りのころには、多くの見物人でにぎわっていた。(中略)伝説中の池田の池は、この付近にあったといわれ、天女が羽衣を掛けたという松は……(後略)」
なるほど、これは重要なヒント。「千葉」の語源のひとつとして、葉がたくさん重なっている様子を示しているという説もあるそうだ。
とはいえ、現在の県庁付近は、海からも遠く離れ、高度成長期の埋め立て地でもない。かつて水面が広がっていた様子は容易にうかがえない。
さらに「池田の池」のことを詳しく知ろうと、研究員はNPO「観光立県支援フォーラム」の吉野秀夫副理事長を訪ねた。「千葉市中心部に『池』を想像させる場所がない」と疑問をぶつけると、「いえいえ、昔の史料には、池に関する多くの記述がありますよ」と吉野さんは話す。
例えば、江戸時代に出版された寺巡りのガイドブック「坂東観音霊場記」の千葉寺縁起には、「天平2(730)年秋8月、行基大士武蔵の国を経て、当国の海辺を過ぎ玉(たま)う。前途海を去ること遠からずして、池田の郷(さと)に大いなる池あり。大士池の中を臨み見玉えば、水金色にして栴檀(せんだん)の香あり」とある。また、江戸末期ごろの「下総国旧事考(しもふさのくにきゅうじこう)」によれば、池田の郷の地名の由来について、「池田ハ堰田ニテ(中略)此池田ニマカス堰アリシヨリ、負ワセタル地名ニヤ」(訳、この郷の地名の由来は、田に水を引く灌漑(かんがい)用の堰(せき)があったから、そのため池の役割を負わせて池田と命名した)とある。
では、「池田」という地名が生まれる前に、「大いなる池」(灌漑用のため池?)があったということになるのだろうか?
■いつから「池田郷」?
「池田」と呼ばれたのはいつごろからなのか。また、どこに位置していたのか。さらに古い文書を調べてみると、9世紀ごろの郷名をまとめた現代の市町村名辞典にあたる「和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)」の下総国千葉郡の項目には、千葉郷(現在の千葉市稲毛区の穴川・黒砂付近)▽山家郷(船橋市の三山付近)▽三枝郷(千葉市稲毛区作草部一帯)▽糟郷(同市若葉区加曽利一帯)▽山梨郷、物部郷(四街道市付近)−−などの郷名があり、池田郷はこれら各郷に囲まれた範囲であるとあった。早ければ8世紀、少なくとも9世紀には「池田」が存在していたと考えられる。
さらに、千葉市中心部の字名を「下総国千葉町字限絵図(あざかぎりえず)」で調べた。すると、県庁近くに、ため池から灌漑用水を取り出すイメージの「字樋ノ口」、市立院内小学校付近には「字堰ノ下」の地名が確認できる。吉野さんは、当時の景観や痕跡を表す字名などの情報を総合すると、「稲作灌漑用のため池として、都川が蛇行していた部分をせき止めて『池田の池』は造られたのではないか」と話す。「なるほど」と研究員も納得した。
ただ、これまでの話は古い文献や史料による類推だ。科学的な裏付けがないかとさらに調べてみると、県内外で地質の分析をする科学者や歴史の専門家が09年2月に集まり、通称「チビッコ広場」(千葉市中央区道場南)と「本町公園」(同区本町)でボーリング調査を行っていた。
調査の結果、地中の堆積(たいせき)構造や、地層から見つかったケイ素を含んだ藻の一種珪藻(けいそう)化石の分析などから、平安時代ごろに「池があった」と想起されることが裏付けられたという。
■「伝説」の背景は?
古文書や科学的調査で、池の存在は確認できたが、冒頭の立て札にある「羽衣の松」の話は伝説で、史実でないとされる。
ただ先に紹介したボーリング調査で、地中の地層内の花粉の状態を分析したところ、古墳時代ごろからマツ属花粉が急激に増えていることがわかった。これは、カシ類などの自然林が人間の手により開拓され、カラマツのみが点在する開けた光景に変化していたと推定できるという。調査を担当した県中央博物館の奥田昌明・上席研究員は「もしかしたら、台地にはソバなどの畑地、低地には水田が広がっていたかも」と指摘する。
更級日記の筆者、菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)が、父の任国・上総(現在の県中部)から京都に上京するのが1020年9月ごろ。日記には京に帰還する旅の初日に「いかた……という地に2日間足止めされた」という記述がある。「池田の池」近くに古代の官道があったという研究もあり、彼女が足止めになったのは、秋雨や台風の影響による池の増水なのだろうかなどと、想像は広がる。
今年7月のちばみなと研究所で、地磁気の変化により、平安−鎌倉時代に日本でもオーロラが見えた可能性があると報告した。「羽衣」は天に広がるオーロラの神秘的な様子が、後世に伝わったものでは?と想像をたくましくすることもできる。
地中や古い地名のなかに古代の池の痕跡が残されていることを知り、今はビルが建ち並ぶ千葉市中心街が、少々身近になった研究員だった。
参考文献▽吉野秀夫「『更級日記』と池田の池」▽県立中央博物館「自然誌研究報告」(第11巻第2号)▽古関東深海盆ジオパーク推進協議会シンポジウム冊子「深海盆上の千葉市のロマン」(10年8月)
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◇研究所長の感想
羽衣公園の立て札は読んだ覚えがあるが、「池」のことはすっかり忘れていた。城主が羽衣を家来に命じて隠し、帰ることができなくなった天女を妻にした、とのくだりの方が記憶に残る。そんなにきれいな蓮であれば池ごと復活させて名所にとも思うが、ロマンを大切に考えると余計なことだろう。【前田浩智】
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◇設立趣旨
毎日新聞千葉支局に設立された仮想シンクタンク「ちばみなと研究所」は、県内の毎日記者が研究員を兼ね、房総半島の謎や不思議に迫ります。想像力が時にとっぴな結論を導くとしてもどうかご容赦を。テーマ提案や情報提供も歓迎します。あて先は〒260−0026千葉市中央区千葉港7の3毎日新聞千葉支局内「ちばみなと研究所」。電子メールはchiba@mainichi.co.jp
10月12日朝刊
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